鵜島鳥瞰
鵜島ってどこですか?
鵜島案内

明治13年、地誌取調書によると
字鵜島、田の浦、茶谷、瀬元、家の奥、宮の下、脇の谷、北濱、大碇、荒神堂、小濱
この地は東北にある島にして四隣海なり
東西六町三拾間南北六町とある。

空から見た鵜島

西の鼻

宮下港よりみて西側にあたる鼻というところからつけた鼻名

宮下港

氏神宇佐八幡宮の下側にあるところからついた港名。
昭和49年3月、長さ38m、幅6.5mのフェリ-着岸桟橋が完成
昭和51年3月待合所が完成した。

月の浜

西側の浜を月の浜という
村上水軍の船着場を意味し、元は「着の浜」と書いた。
村上氏の陣家が並び船手衆の住居であった。

中山

宇佐八幡宮の西側に中山奉行所があったところからついた地名で現在は畑になっている。

蛇谷

明治13年の地誌によると「茶谷」とある。
山の中腹に大きな岩石があり下のみかん畑に池があったが大きな蛇が中腹の岩石に尾をあずけ池の水を飲んでいたという伝説がある。

CGで見る鵜島

小浜

家の谷に「大浜」という屋号の家があり家の谷の海浜を「大浜」といいこの浜に対し小さな丘を一つ越したところにある小さな浜というので「小浜」の名が出た。
船役所があったところで船奉行・小浜源右衛門が勤めていた。
能島役所と鵜島役所との急用連絡には昼間は小旗、夜間は火を用いていた。
水軍にはなくてはならない造船所があった。
当時の古井戸があり能島へもさかんに汲まれて行った。水質は良質で水量も豊富でどんな干天の年でも水が切れたことがない。 

ゲイゴ鼻

小浜の西側の鼻を源右衛門鼻という。
通称「ゲイゴ鼻」(警固鼻の意味では)といい岩礁の上には桟橋の脚穴と思われる穴があり能島に水を汲む船を係留する桟橋があったのではないかと思われる。

ペラゴラ(下ダンボ)

下ダンボ・荒神瀬戸の潮流が渦を巻いて流れているが湾内は急流の内側にあり潮が静かに動いている自然の良港でたくさんの船が係留されていた。
能島の矢蹕出丸の下岩礁と最も近い鵜島の岩礁上には桟橋脚穴があり両島の連絡場所となっていたと思われる。
鵜島の人は荒神堂の小山と通称呼んでいるが台風で崩れてしまい今は岩礁だけとなった。
能島との距離は約50メ-トル位で矢蹕出丸からこの小山が弓の練習の矢的になっていた。

荒神堂

この谷より大きな瓶が出土した。
瓶を取ろうと海で洗ったところ海が一面に真っ赤になって潮流にのって大三島まで真っ赤になったという。
これは朝鮮半島か中国から持ち帰った「朱肉」ではなかったと言い伝えられている。
瓶は大浜の水瓶として使用していたが慶応の頃に割れてしまった。

柳谷(上ダンボ)

上ダンボ・柳が生えていたのでつけた谷名
潮流のよどんだところでベラゴラ(下ダンボ)に対して上にあるので上ダンボという。
北側に鼻が出ていて内側がダンボになっている。
現在でも台風の避難場所として船が係留されている。

荒神瀬戸

鵜島と能島の間にある瀬戸の名である。
鵜島に荒神山があり荒神谷に面しているところから出た瀬戸名。
能島は東側を「荒神」・西側を「神代門」・南側を「神の瀬」と三方を神によって護られている。

大碇

荒神瀬戸の急潮流と船折瀬戸の急潮流の内側になり海水が淀んで船の係留場としてよいところから大碇とついた。
大碇とは広い船の泊り場という意味で近くの上ダンボ下ダンボの小さな船泊りがあるのに対してつけた地名。

ミノテ

見残しを略していった地名で余りよい土地でないので年貢取立てを免れていたところから出た地名。

長鼻

高さ23メ-トルの丘が長く突き出ているところからついた地名。
この丘の上から石棺と錆びた刀が出土した。
有津の人が持ち帰ったいたが不幸なことが続いたので返してきた。大山祇神社の勧めで国魂神社として祀り合祀されている。

大谷

鵜島で一番大きな谷。
この地に大谷弥右ェ門代官所があった。

田浦

大谷代官所から上が畑、下が水田であったと思われる。
当時は今の海岸の湿地帯は海であったと思われこの水田は大谷代官自ら開いたという。
多くの人を使っていたと思われる。

荒戸鼻

この鼻は船折瀬戸の瀬戸内海側よりの入口で東風が吹くと海面が荒れる入口というところからついた鼻名。

カリ先

かり(家狸)は狸の異称。
鵜島にもたくさんの狸が住んでいたと思われる。

太鼓石

太鼓のような形をした石のあるところからついた地名。

オタテ

立山のことでとめ山(禁山)ともいわれ今治藩の禁山
伐採してはならない山としておかれていた山。
昔の人は木の枝1本切ると指を1本切られ根本ごし切ると首を切られるというので恐れられていた山だった。
佐島村より見張りの者が派遣されていた。

チンチン水

珍珍水
めずらしいほどしか水が出ないところからついた地名。

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